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その思考損してます。劣等感を克服すべき理由と3つの克服法

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誰しもがある分野では持っている劣等感。

劣等感という感覚を持っていると、挑戦や克服といった前向きな行動を起こせなくなる一方で、控えめになり成果を相手に譲るといった言動になり、消極的ではあるが、他人に危害を加えることなく人間関係を平和的に保っていけるメリットもあるように見えるものです。

そんな、あなたにもあるかもしれない劣等感についてそのデメリットと、それを持ってはいけない理由を綴っていこうと思います。

本人だけの問題ではない劣等感という感覚

劣等感はなぜ生まれたか

私たちの周りの劣等感持ち

あなたの周りにも常に劣等感を抱えて生きているのではないかと見受けられる人物がいると思う。

もしかするとあなた自身が謙遜を美徳と教えられてきたが為に無意識に劣等感を感じているのかもしれない。

自分には何かしら誇れるものはあるけれども、それ以外の部分ではおおよそ他人に劣っていると感じ、いつも一歩下がり、ペコペコと頭を下げ自ら謙遜してみたり、相手に対してどうせ自分は間違っているだろうと意見を控えたりする。

以前私が勤めていた調査会社の後輩社員が劣等感の塊のような人物であった。

いつも周囲に気を使い、一歩引いた姿勢で「自分は結構です」「お先にどうぞ」「大丈夫です」とこちらが恐縮するほど、何か借金しているような、弱みでもを握られている者が相手の機嫌を買うかの様にへりくだって ペコペコしている。

その場だけで胡麻をするお調子者という訳ではない、噂話でもやれあの先輩は凄いだの、僕は部長の様に売り上げを上げられないだの、僕には到底無理だのと、まともに話に付き合っていると、こちらがお通夜状態に陥ってしまうので疲れてしまうか、変に優位に立った気になり自分が偉くなったと勘違いなってしまいそうになる。

息をするように会話中に吐き出される「すいません」が口癖 の弱々しい男だった。

人間関係を無難にやり過ごすための感覚

そうやって余計な波風を立てず、相手を敬う振舞いをする事で人間関係を丸く収まるように調整して、周りと上手く付き合っていけるのだ。

これまで過去に3000人を超える方々の相談に応じてきたが、劣等感が滲み出ている人というのは虐待やいじめなど何かしらの強い心理的ストレスを抱えた経験のある人物たちだ。

その苦痛を逃れるために身に付けたのが謙遜や服従といった相手からの攻撃を避ける処世術であり、それを免罪符として使う能力を発揮するうちになんでも相手より自分が下であるという感覚を持つようになったのだ。

劣等感という感覚を知らず知らずのうちに身に付けてしまったのであるから、気の毒だ。

本人の環境と運が悪かったとしか言いようが無い。

周りに迷惑を掛けない優等生?

 

劣等感は実害が無いので許されてきた

劣等感持ちの人物は周りから見ても慎ましやかで控えめ、そこそこ仕事をこなし和を乱すことなく何でも無理をして言うことを聞いてくれるので、頼りがいは無いが害も無い平和な人物とみられることが多い。

害があるとすれば本人の持つ自分を卑下するような雰囲気が少し場を暗くする事くらいで、それも実害が無いので許されてきた。繰り返して言うがほぼ悪影響のない人物と思われている。

本人も自分は出しゃばりもせず、周りとの関係をそつなくこなせるという意味では人間関係の優等生であると思っている。

だが、それで本当に良いのだろうか?

困っていないので変わらない

もっと自信を持って自分の思い通りに生きてみろと熱血人生コーチのような事を言いたいのではない。

そんな自己啓発的な考えを押し付けたところで、でも、今のままで困っていないので僕はこのままでいいです、とまた劣等感持ちらしく穏やかに感じよく断ってくるだろう。

本当に変わらなければならない

この後に述べる考察はそんな本人の為でもあるが、むしろ周囲の迷惑の為に提言したい事だ。

実は劣等感には本人や周りも気づかない(気付いているかもしれないが)有害で問題があり、それは持っていて百害あって一利なしともいえる、今後早めに捨てるべき感覚なのである。

豹変した後輩

前述した、私の調査会社時代の劣等感の塊のような後輩も数年が経ちそれなりに仕事が出来るようになってきた。しかし相変わらずの腰の低さは、頼みもしないのに膝を折り自分の頭の上に高々とお茶を掲げてうやうやしく「よろしければお召し上がりください」と忍び寄ってこようかという勢いだ。

そんな彼にもついに後輩が出来た。

自然の流れでその後輩の教育をすることになるのだが、その対応が驚くばかりであった。

「おい、鈴木君それ前も言ったよね?」

「そんなことも知らないの?」

「もっと早くやれよ」

「何度言ったらわかるんだよ」

と正に先輩風吹かせまくりのスパルタである。

本人としては他の先輩方に失礼の無いようにその後輩を早く一人前にしたいとの思いからの指導なのだろうが、普段の態度から180度変わった態度 に一同唖然である。

彼は学生時代に野球部に入っていたと聞いていたが、その時の上下関係の意識をそのまま社会人として発動していたのだ。先輩には絶対服従だが後輩には自分たちがされてきた事の仕返しのごとく厳しく当たる 典型的パターンを踏襲していた。

スポーツをやっていた事もあって体つきもガッシリしていたことも下の者に対する自信につながっている。

それを見た周りはどう思っただろうか。

後輩をビシビシ鍛える爽やかなスポーツマンだと見ただろうか。

答えはもちろん「ノー」だ。あっという間に、あいつの今までの態度は上辺だけだったのだ、と一気に評判を下げてしまった。

その理由は、後輩が出来るまでの彼があまりにも腰の低い劣等感持ちの代表の様な存在をアピールしていたからに他ならない。

彼が本来誰に対しても適度に自信を持った態度で、爽やかに丁寧に自己主張するタイプであったなら、印象は全く違っていた。そのギャップが命取りになったのだ。

恐らく彼の劣等感スタイルは偽りのない本当の姿だったのだろう。

何とそれが、後輩という自分より立場の弱い人間が現われたことにより状況が変わってしまった。

劣等感の衣の下に隠しておいた優越感という裸の姿がさらけ出されたのだ。

周囲からしたらそれは羊の皮を被った狼そのもの。裏切られたという思いしか生まないのである。

ところが本人からしてみれば、利害関係のある先輩やお客様に対しては完璧な劣等感を持って、粗相なく接してきているのでトラブルもない。全く困っていないから問題ないと思い込んでいるのである。

そこが大きな落とし穴で、劣等感持ちは皆全て、この落とし穴に真っ逆さまに落ちていく。

文化の中から生まれた劣等感

劣等感と共に成長する意外なもの

教育の構造が劣等感を作り出している

そもそも日本の教育というものは敬語を学ばせることでまず自分を相手の下に固定化し、部活動によって先輩後輩の力関係を無条件に強制的に守らせ、思春期という心の成長過程で目上の者に対する劣等感の種を自然と植え付けるような構造になっている。

そして植え付けられた劣等感というものは、精神構造の癖、習慣となって芽を出し、出しゃばってはいけないという固定観念を根付かせ、教師や先輩からのマウンティングの雨と満足して喜ぶ顔という日光を養分として大きく生長し、もはや刈り取る事が困難になってしまう。

だが、それだけではなく、本人も気が付かないうちに劣等感と併せてもう一つの厄介な性格の癖も身に付けてしまっている。そう、光と影の関係の様に。
それは劣等感とは真逆の優越感である。

優れているか劣っているか

一見、かけ離れていると思われるかもしれないが、劣等感を持っている人間は自分では気づかない内に、それと同じ程度優越感も持っているものだ。
それは日常の人間関係の中ではしばしば弱い立場にいる事で常に劣等感の裏に潜んでおり、表に出てくることは無い。
ただ、劣等感の強い人間は上下関係に敏感に出来ており、通常それは優れているものと劣っているもの(主に自分)に脳内で確実に仕分けられているのだ。それが、優と劣を分ける思考すなわち優劣思考である。

ただ卑屈なだけではない

劣等感を持つ者は、普段は友達や兄弟、同僚や上司などと比べ自分の能力が劣った部分を自覚している。

奥ゆかしく、へりくだり、謙遜するように常に周囲の様子を伺い、不安を抱きながらも気配りをし、思いやりを持って相手に接する優しい気持ちの持ち主として生活している自覚がある。

周りの評価も概ねその様に、気の弱い羊のような所があるが優しく良く出来た人間と映っている。

しかし、その人物はいつもニコニコ愛想よくしているが心の中に抑圧された声に出せない自分の気持ちというものを抑え込んでいる場合が多い。

普段から優れているものに対する劣等感と嫉妬と妬み、自分の至らなさへのイライラや理想の振舞いが出来ない事へのフラストレーションを相手の為だと自分に言い訳しながら無意識に貯め込んでいる。

優越感との密接な関係

たがが外れた瞬間に開放される

ところが、極稀に遭遇した相手が客観的に見て自分より能力や立場が劣っていると分かると、己の劣等感と同程度の優越感を持って相手に対峙するようになるのだ。

普段からおとなしく言いたい事も我慢して耐えていた分、それが解放された時の言動たるや見ているこちらが恥ずかしくなる程だ。

ただの劣等感持ちだと思っていた性格が、実のところそれと同じように優越感も携えた優劣で相手に対する態度を変える優劣思考という性格だった訳だ。
優劣思考というものは実に恐ろしい。

劣等感とは優越感のコーティングである

私の知る限り、劣等感を持った人間は優劣思考の持ち主である。
自分より成績の良い同僚や学歴の高い友人、上司にペコペコ同調しながら、裏では陰口をたたいたり、愚痴をこぼしたり、肩書きを見て妬んだりする一方で、自分より立場の低い人間には優越感から横柄な態度になったり、高圧的になったりする。

普段は穏やかで人当たり良さそうに振舞っていても、店員にタメ口を利いたり命令口調になったりするタイプの人間がそうであるが、実に分かりやすい例だ。

いやいや、いつどんな時も誰に対しても腰が低い人がいるよ、と言いたいことも分かる。

しかし一見そう見えてそれは、劣等感ではない。

劣等感の裏には優越感への憧れが隠れている

劣等感だけというものは存在しない

それは立派な人格者だ

本当に誠実な人物で劣等感を持っている自覚もあり、常に腰が低いだけであれば例え相手と意見が違う事があってもありのままを受け止め、考察したり理解したりして不機嫌になる事は無い。

そして最早それは劣等感を持っているとは言わず、首を垂れる程実った稲穂の様なただの立派な人格者である。

有能でポジティブな人の持つ問題

腰の低い仏のような人格者も初めからそうではない。

始めから人間が出来ていればそれはそれで、極度のストレスが掛かった時にどうなるのか分からない。

一度は優劣思考を経験し、人を見下していたこともあるだろう。

能力がありポジティブな言動で陽気に振舞っている人間は、周りにも期待され、同じように周りに期待する。

そこに落とし穴があって、期待を裏切られた時に怒り、自分に責任がのしかかってきた時に受け止めきれずに逃げ出し、自滅したり、信頼を失ったりして周りと軋轢を生み、協力関係の構築に失敗し、挫折をするのだ。

お調子者で、周りが何とかしてくれるだろうという学生気分の依存体質が社会に出ても抜けきれないと、そうなってしまう。

このようにポジティブ思考を履き違えている者は多い。

挫折を乗り越えて人格者になる

そこから立ち直る人は、こんなはずではなかったと苦しみ初めて挫折を経験し反省し、自分より劣っていると断じてきた人々の心の痛みに共感する事が出来てから、優しく謙虚な本当の人格者になるのである。

そういう常に控えめで腰の低い人を小馬鹿にしているようでは反省しなければならない。そういう時こそ優劣思考に陥っているからである。

危ない優劣思考の特徴とは

下の者にめっぽう強い内弁慶タイプ

劣等感持ちの多くは目下の人間にはあからさまに態度を変えなくとも、知らず知らずにどこか人を小馬鹿にした物言いや無視をしたり逆に慇懃に上から教えてあげるような口調になったりするので注意が必要だ。
そして、家に帰れば妻や子、親兄弟に対してぞんざいな口の利き方をしたり、自分勝手に振舞ったりするいわゆる内弁慶であることが多い。

身近にそういう人がいたり、自分自身に思い当たることがあったら要注意だ。
他人には愛想よくしていても、家族に強い口調だったり悪態をついていたりしているところを見せられたりすると、相当なイメージダウンになると言わざるを得ない。普段抑圧されている分、偉そうに振舞われる身内はいい迷惑である。

自覚が無い

タチが悪いのはそういう劣等感の特に強い人には自覚が無い事である。

普段自分には誇るものが何もないと感じていたり、周りが優秀な人ばかりで自分は足を引っ張っていると感じているような人、いつも何かに追われるように焦っているような人にその傾向が多くみられる。

抑圧された自分の本当はああなりたいという理想と現実のフラストレーション、身近にいる優秀な人間たちに対してどうしても気後れしてしまう自分への情けなさなど、様々な感情が入り混じって劣等感となっている。

それがいつ爆発してもおかしくない状況に日々置かれているにもかかわらず、その事に気づかない。むしろ自分は控えめで穏やかで他人に迷惑など掛けない従順な人物だと概ね勘違いしているのである。

大きな反動でバランスを取っている

そして、日常的にほとんど自分が他人より価値があると思える事が無ければ無いほど、他人と比べて劣っていると劣等感を感じていればいるほど、立場が下の人間を見つけた時に大きな反動となって返ってくる。

態度が大きくなり、劣等感から自分におびえる相手への優越感に浸り、この上ない幸福感に包まれるのである。

失われる信用

 

そういう人間をみてあなたはどう思うだろう。或いはあなたに身に覚えがあるとして、そういうあなたを見て周りはどう思うかは、説明するまでもないだろう。

普段良い人に見られているがゆえに、自分が攻撃される恐れのない安全な相手の時だけ、都合のいい時だけ態度が変わったあなたに対して人々は軽蔑と憐れみと不信のまなざしを向け、一瞬であなたへの信用と信頼は失われてしまうのである。

信頼される人間になるためには

なぜ優劣思考になってしまうのか?

優秀でなければならない本能

優劣思考それは他人に後れを取りたくない、人より優れていたいという人間の本能から来ている。

人間は集団で群れを作る生き物だ。

狩りの時に周りに後れをとっていては食料の分配にありつけないかもしれないし、働きによって分け前が減らされるかもしれない。

逆に優秀であれば、他人より先においしい獲物を一人占めすることだって出来る。

生き残るためのアピール


そして、種の保存の原則から優秀な種を残したいという本能が働いているので、他人よりも優れていなければペアリングの相手として選んでもらえる確率が低くなってしまうのだ。

だから人は集団に後れたくないし、自分より劣っているものに対してはマウントを取り、いかに自分が優れているかをアピールするのだ。

この本能についてはもちろん現代にも通じるので別の機会に話したいと思う。

本能のままでは動物と同じである

ただし、今は現代社会である。現代においては複雑な社会構造となっており、様々な関係各方面からだけでなく身近な人たちからの協力が不可欠で、本能の赴くままに行動していては、目的を達成するのは困難だ。

優劣思考から脱却しなければならない理由

社会的動物としての関係構築を

あなたが、身近な人の協力がさほど必要のない立場であれば別だが、多くの場合他人との対立は避けるべきであり、いざという時は気持ちよく協力してもらえるような信頼関係の構築が不可欠である。

普段から相手に劣等感を感じさせるようなマウントを取ってくる相手に、心から協力しようと思うだろうか?

本当に他人の助けが必要な時は自分が社会的に大きなダメージを負い、地位や権力を失い弱っている時に劣等感からあなたに仕方なく従っていた者たち手を差し伸べてくれるだろうか?

答えはノーだ。

優劣思考は障害となる

だから、この優越感を持った行動に陥らないように注意する事が必要なのだ。

そのためには繰り返すが、劣等感も含めた優劣思考を止めなければならない。

裏の顔が分かり辛い分判明した時が嫌われる

優越感を持った者の言動は往々にして、印象が良くないのである意味警戒しやすいし、対策もしやすい。

劣等感を持った者の言動は表向き相手に親和的に見えたり協力的に見えたりするのでむしろ人間関係においてプラスに働くように思える。

しかし、その内面は自分が相手に及ばないから仕方なく従ったり、自分の能力を低く見積もり相手に迎合したりしているだけの事が多く、自己評価が低いから仕事のパフォーマンスも悪く、劣等感オーラが周囲に気を遣わせ迷惑を掛ける。

真の信頼や友情とは程遠いもので、タチの悪いことに笑顔に隠れてその裏の顔が分かり辛い。

相手の優劣思考を知るにはどうすれば良いのか

感情は表れる

しかし、相手が隠れ優劣思考の場合何か不本意な事を言われた時の本人の態度を見てみよう。

言葉では承服したような事を言いながら、笑顔が引きつっていたり、無意識に物を雑に扱いバタバタ音を立てるなど普段と違った様子を見せることがある。明らかに不機嫌なのだ。

そう、誰しも感情は態度に出る。普段は無意識にそれを隠しているのだ。

感情が態度に出るので注意しよう

 

ポーカーフェイスに見えてメンタルは弱い

その証拠に陰では批判したり羨んだりして相手の失敗を望んでみたり、失敗した事にしめしめとほくそ笑んだりしてマイナスの感情を吐き出したりしているのである。

それが、感情を押さえられなくなった時に態度に出てしまう。メンタルが弱い証拠だ。

劣等感にはデメリットしかない

そういった場合、仕事でもプライベートでも共同体としての十分な成果を上げる事は困難だ。

結局は、劣等感という一見控えめな性格で人間関係の潤滑油のような立ち振る舞いをしているつもりで、実はマイナス効果しか生み出さない。

だから、他人と比べて優れているとか劣っているとかいう、優劣思考は捨てたほうがいいという事を日頃から意識する必要があるということなのだ。

劣等感に別れを告げる方法とは

1.自分中心に爽やかに行動する

意識しなければ変えられない

優劣思考は本能的なものだから、意識して排除する必要がある。
それには常に、他人は他人自分は自分という立ち位置を確認する事である。

その中心は常に自分であることを意識しよう。

他人と比べてばかりいると他人の行動によって自分の行動が制限され或いは決断に影響を及ぼされ、自分の位置を見失ってしまう。

そしていつの間にか最初に思い描いていたものと違った結果を手にして後悔してしまうのである。

それは、些細な事でも常に意識しなければならない。

他人に行動を決めさせるな

 

他人軸で生きてしまっている

あいつがあれを持っているから自分も一つ上の物を手にしよう、あの人が機嫌を悪くするからこれはやめておこうと、大して意味のないものに時間とお金を使い、好きな事やりたい事をあきらめたことの何と多い事か?

他人に気を遣い自分を抑えることは何と苦痛な事だろう?

他人に合わせて他人軸で生きることはもうやめにしてはどうだろう?

相手には相手の事情があり、そもそも自分には関係の無い事なのだ。

不機嫌に振舞ってくる相手はそうすることであなたを自分の都合の良いように変えようとしているのだ。

それに付き合ってしまっては、自分のやりたい事も出来ないし、そんな自分がますます劣っているように感じられてしまう。

決して相手の機嫌を取ることに自分の労力を使ってはいけない。

あなたを攻撃してくる相手の狙いに乗るな

 

爽やかな自己主張をして自信をつける

他人に遠慮ばかりしていては自分の望む幸せを手にすることは出来ない。

自分はこうしたい、あれが欲しいと自己主張しなければ、他人に先を越され、奪われ、代わりにいつまでも消えない後悔の念と自己憐憫の衣を身にまとっていくだけである。

いや、そんな簡単に自己主張出来たら苦労しないよ、と言っている間は体に染みついた劣等感の匂いを消し去ることは出来ない。

小さな事からでいい。相手に配慮しながら自分のやりたいように行動してみよう。

小さなお願い事をしてみる

まずは、相手に許可を取れるようオファーする事から始めよう。

例えば、急ぎでコピーを取らなければならず、相手に順番を譲ってもらいたい時など

  • 恐れ入りますが
  • 申し訳ないですが
  • 差し支えなければ

などのクッション言葉の後に「急ぎの資料がありますので」など理由を付けながらコピー機を使わせてもらうようお願いしてみよう。

肯定してから意見を述べよう

その他、意見が違う場合、「そうなんですね。」「そうかもしれませんね。」「分かります。」などと相手の意見を尊重したうえで、「でも、私は○○の方が良いと思います。なぜなら~」などとやりたい事と理由をはっきり述べてみよう。

結果に期待しない

そして自己主張をした後だ。その後の他人の行動には期待しない事。

あなたの主張を受け入れるのも撥ねつけるのも相手次第。拒否された時は「あら残念、この人とは意見が違ったね」と思って軽く受け流していればいいのである。

最初に言ったように、他人は他人自分は自分であり、意見が違うのは当然だと常に自分に言い聞かせよう。

大事なのは自分の意見を通す事ではない、爽やかに自己主張するという行動だ。

自己主張をする事で、次第に自信がついていき、劣等感から抜け出す事が出来る。

2.感謝の力で逆転する

 

情勢を一気にひっくり返す思考法

相手から嫌なことをされたり、苦手だと思った時は、考え方次第でその状況を脱却することが出来る。

  • 相手の良い所を考える事。
  • 感謝すべき所はないだろうかと考える事。

その両方が出来ると怒りや劣等感などはスッと消えていくものだ。

一度に相反する感情は存在できない。

人間の脳は感謝したり、良い事を想像したりしながらネガティブな事を考えられないように出来ている。

色んな場面で言われることだが、マルチタスクに対応していないのだ。

優越感にも対応

この相手の良い面、感謝出来る面を探す思考法は自分が優位な立場に立った場合でも役に立つ。

相手が年下であったり、能力が劣っていると感じたり、業者だったりと自分が優越感に浸りたい誘惑に駆られた時はこのことを思い出そう。

弱い立場の相手に対しても良い面、感謝出来る面を考える事によって相手の尊厳を傷つけるような行動を控えるようになるだろう。

人生を変える最大の力

この対処方法は人間関係だけでなく、自分に起きるどの出来事にも適用できる人生で最も有用なスキルである。

最初の内は慣れないかもしれない。理不尽な目にあった時。災難や事故が降りかかってきた時。ネガティブな感情を引きずってしまうだろう。

その時には思い出してほしい。

この問題の良い所は何か?感謝出来ることは無いか?学べる事は何か?

きっとあるはずだ。脳にそれを探そうと強いるうちにマイナスな感情は薄れて行き、ポジティブ思考に急激に舵を切っていく。

何度も練習して人生を変えろ

慣れてくると、すぐに良い点、感謝すべき点が見えてくる。

次第に他人の感情や能力の差などどうでも良く思えてきて、自分の出来る事だけに意識を向けることが出来るようになる。

その時あなたは劣等感の呪縛から完全に解き放たれるのだ。

感謝の気持ちでネガティブ感情を吹き飛ばそう 

3.与える人間になる

何でも良いから与える側になろう

何度も述べているように、劣等感の根底には優越感への憧れが潜んでいる。
その優越感を秘かに満たして誰もが幸せな気分になれるのが「与える」という行為だ。

世の中はギブアンドテイクである。

ギブアンドテイクは集団で生活する人間の営みには遺伝子レベルで組み込まれている法則であり、社会活動にはこの法則が本能的に組み込まれている。
太古の昔から、この法則を破り、テイクだけする者が群れから嫌われ孤立し、排除されてきた。

何かを得るためにはまず与えなければならないのだ。
生活の為のお金を得るために、商品を作って売る、サービスを提供する。何かを生産出来ない者でも労働力を提供する。
そうして衣食住を満たす事が出来るのだ。

与えたものが返ってくる

自分で獲物を取り、自分で着るものや住む場所を作り自給自足で生きて行ければその必要は無いが、現実世界では不可能だ。
だれもが、自分の出来るものを誰かに与え、その見返りとして何かを受け取るように出来ている。
それが出来て初めて社会に貢献できる人、つまり「社会人」として認められるのだ。
それが、自信となり良い意味で大人としての優越感を満たしてくれる。それが出来ない者が「劣等感」の餌食となるのだ。

与えたものが返ってくると意識して積極的に与えていこう

与えるという行為はそれだけ自信を付ける最も効果的でかつ、誰にでも出来るアクションなのだ。
これを使わない手はない。
会社員でも社会の為に自分の労働力をギブしているのだという意識があれば劣等感に囚われる事もないが、それを実感できないのも事実。

劣等感を克服したい私たちに出来る簡単な行為は与える事だ。

与えられるものはある

でも自分には何も人に与えられるものなどない、とあなたは言うかもしれない。
お金もない、特別な技術もない。自分の事だけで精いっぱいなのだ、という訳だ。

果たしてそうだろうか。何かを探して与えてみようではないか。

  • お釣りを募金する。
  • 職場でちょっとしたお菓子を配る
  • セット買いした安い文具を配る
  • 空いた時間に5分だけ同僚の仕事を手伝う。
  • 家事を手伝う。
  • 本を読んで身に付けた役に立つ知識を誰かに話す。
  • 優しい声を掛ける
  • 誰かに親切にする

考えればお金を掛けずに与える事はいくらでも出て来るものだ。

帰ってきた喜びが劣等感を薄めていく

与えて喜んでもらう事で自分の中にも喜びと満足感、小さな優越感が生まれ、溜まっていた劣等感が少しずつ薄まっていくのを感じずにはいられないはずだ。

その瞬間の繰り返しで、幸せな心のエネルギーが蓄えられて行き、優越感だの劣等感だのという感覚はあなたの周りの幸せな空間の中に蒸発して消えていく事だろう。

どんな小さな事であっても人に与えるという事で、与えられた者から感謝され、自分自身も幸せな気持ちになれるのだから、実行しない手はない。
成功する器の大きな人間は皆与える人である。

与える側の人間になろう

まとめ

日本語の奴隷となった教育

形式的に尊敬の念を表す便利な敬語

古くから日本人というものは奥ゆかしさというものを美徳として来た歴史が有ると言われている。
謙遜することが相手を立てる事になり、自分なんてまだまだそんなあなたには及びませんという自信の無さそうな態度が好まれる。

相手は自分より下の人間を見て安心したいからだ。

最近ではそんなことよりもっと自分に自信を持ちましょうという社会的な雰囲気も出てきたが、まだまだ少数派であるし、ここでそんな自分を大切にして自尊心を養おう、という話をするつもりはない。

自分を下に置き相手を立てる

日本語特有の敬語には、相手を上に見る尊敬語というものがあり、相手に対する心遣いや相手を立てて気持ち良く会話を進めて行きたいという一種思いやり、おもてなしの精神のようなものが存在する。

それだけではない。相手を自分より上に立てた上に更に、自分自身を語るときには、わざわざ自分を相手より下に置く謙譲語という言葉まで存在するのである。

言葉が文化を作っている

言語によって民族の性格が決まる

言葉は文化というが、その表現は意味深い。

敬語が存在しない英語圏では対等に

英語圏の民族は敬語の概念が無いので初対面の相手や年上であっても自ら積極的にフランクに話をするし、意見をはっきり言う傾向にある。

そうしなければ多民族国家の入り混じるヨーロッパやアメリカでは勝ち残っていけないからだ。ましてやこれは私の想像だが、彼らは立場的に自分から相手の下に滑り込んでいくような真似はしないだろう。

言葉に染まって性格も変化する

面白いのは日本で生まれ育った日本人であっても、英語圏へ行って数日も生活すれば日本にいる時と比べて能動的になり、自らコミュニケーションを取ったりフランクに話しかけたりするようになりやすい傾向にあるという事だ。

私にも経験があるのだが、アメリカに旅行に行っている間にすっかり初対面の人に「ハーイ」と声を掛けたり、遠慮なく物事を訪ねたりすることが当たり前となり、帰国してから数日間もその感覚が残って、気分が常にハイテンションを保ち、スピリチュアル的な表現をすれば振動数や波動が高い状態が続いたことがある人もいるだろう。

勝ち抜くための中国語

中国語にも特徴があって、同じ発音でも5種類くらいのイントネーションを使い分けることにより待ったく違った意味になる。

その抑揚の違いを表現するためには小さな声では伝わらない事が多い。だから中国人は大きな声になってしまい、自己主張も強くなるのではないかと勝手に思っているが、あながち関係ないこともないだろう。

言語と民族性の相関関係

同じ言語でも民族によって変化する

以上の事から考えると英語を話す民族、特にイギリスよりも滑らかで抑揚のある英語を使うアメリカ人に陽気なイメージがあるのもうなずけるのではないだろうか。

それはすなわち、民族性には使用する言語が大きくかかわっており、イギリス英語に比べアメリカ英語がより滑らかで抑揚もあることから分かるように、言語もまた民族性によって進化していくものなのだ。

日本語の美徳

およそ日本語というものは相手を上に立てたり、自らを相手の下に置いたりして気を遣うことを美徳として成り立っている。
自然と、自分が相手より下にある事が正しいと子どもの頃から教育、洗脳され、どうせ自分などは大した存在ではないのだと劣等感の種が成長するにつれ芽を出し始める。

そこへ封建社会の古い教育やら、先輩後輩、教師と生徒、コーチと選手などの日本的な上下関係などが養分となり、そこで期待された成果が出せなかったりすることで、大人になるころには取り返しのつかないほど大きな幹に成長してしまうのだ。

日本語は上下関係を作る

 

教育が原因であることを理解しよう

言葉は文化であり、古来から敬語を使い続け、その中でも尊敬語と謙譲語を使い分けへりくだる文化が浸透している日本で、誰もが幼いころから大人に対し、先輩に対し、自分より成績のいい同級生に対しへりくだるように教育されてきた。

結果として劣等感が植え付けられた者がいる。

その裏返しが自分より目下のものに対する強烈な優越感となり、優劣思考で両者の分断を生み続け、個人の中でもまた両者が顔を出す事で周りに迷惑を掛け評価を落とすなどの悪影響をもたらしてきた。

優劣思考の危うさを忘れない

それは、今すぐに一気に変えることはできないかもしれない。

でも、人に優劣をつけて劣等感や優越感という感情に振り回される優劣思考があるという事を覚えておく事で少しずつ変えていけるはずだ。

仏の顔をした悪魔

そして、劣等感こそが仏の顔をした悪魔なのだ。

もしあなたが他人に対してどの分野であれ劣等感を持っている自覚があるのならば、それを排除し、まず他人と比較して優劣で物事を判断しないように気を付けなければならない。

また相手によって態度を変える事は自分の評価を下げるということを覚えておかなければならない。

仏の顔をした悪魔になるな

対して、明らかに劣等感に支配されているような人物へは、優劣思考の持ち主であることを前提に付き合っていく事 をお勧めする。

まずは一見他人に対して無害だと思われがちな劣等感の自他への有害さに気づくことから始めてみようではないか。

終わり

 

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